今日は、記事にするべきか最後まで悩んだ、ある言葉について書きたいと思います。実は、今こうやって記事にしている時点でも、迷っていたりします。
それだけ偉大なもので、私ごときが偉そうに語れるものではないと思っているからです。しかし、どうしても思うところがあったので、あえて書きたいと思います。
さて、その「ある言葉」とは「愛」です。相手のことをいとおしく、かわいく思う、大切に思う、いつくしむこと。これらの感情を、私たちは愛と呼んでいますね。
なぜ、「愛」について書こうと思ったのか?そのきっかけは、実はオカメインコでした。「え!なんでオカメインコ!?」と、思うでしょうね。
目次
愛についての記事を書くきっかけ!?人生初ペット
実は最近、この歳にしてはじめて!?ペットを飼うことになりました。オカメインコです。
今まで、自分でペットを飼ったことがなく、自分から進んで飼うこともありませんでした。動物嫌いではありませんが、ペットを飼いたいと思うことがなかった。必要性を感じなかったからです。
そんな私がオカメインコと生活をともにすることになろうとは…
ここまでになったいきさつは、ここでは割愛させていただきますが、何にしても私のところに、1羽のオカメインコがやってきたのです。
この歳にして、人生初ペットです。
本や写真などで見るのと実物とでは、ぜんぜん違いますね。当たり前なんですが…
1つ1つのしぐさが、とにかくかわいらしい!我が家に連れてきて1週間足らずで、まだなついてはきませんが、それでもかわいい!!
水やエサに口をつけては顔を上げて様子を窺ったり、水の入れ替えで鳥かごを開けただけで、サササッと逃げたり、まだまだ思いっ切り警戒しているのですが、かわいいから許せちゃう。
…自分でも書いててキモイですね(爆)
書いている自分がビックリ
我が家に連れてきて1週間足らずで、まだなついていません。
おしゃべりはもちろん、話しかけてもそっぽ向かれたり、ちょっと手を差し出すだけでも、トサカを逆立てて(←ビックリしている)素早く逃げられます。
それでも、かわいい。
誰に言われるでもなく、どんどん愛情が湧き上がってくるんです。
どんなにそっぽを向かれても、どんなに逃げられても大切に思える。オカメインコが安心して過ごせるために、何でもしてあげたいと思えてくるんです。目に入れても痛くないとは、まさにこのことなんだと思います。
こんな風に思えるとは、書いてる私自身がいちばんビックリです。
誰もが愛を求めている!?
「ペット自慢したいだけか!コイツは!?」と、ツッコまれそうですね。もちろん違います。
ここで、最初の愛についての話に戻りますが、今の社会は愛に触れる機会が、とても少ないように感じます。
- インターネットやテレビゲームなどの普及で、家にこもりっきりの子供や若者
- 核家族化で、おじいちゃんやおばあちゃんと離れて暮らす家族
- 両親が共働きで自宅にいないので、夜までお留守番する子供
- 「ストレス社会」と呼ばれ、人より優位に立つことで、自分の価値を見出そうとする社会
これらによって人とのコミュニケーションが薄れ、ほとんどの人が愛を感じられず、「愛が欲しい」「愛されたい」と、愛を求めています。
愛が欲しい!と、いうことは?
愛が欲しい、愛されたいと思うことは、裏を返せば、今は愛されていない、満たされていない。つまり、「ない」という状態です。自分自身はもちろん、自分だけでなく人の「ない」もの、マイナス面にばかり意識が向くようになります。
そして自分が愛情を注いでいるのに、相手からの愛情が満足に返ってこない、相手からの愛情が自分の注いだ分と釣り合わないと感じると、「自分は、こんなにも尽くしてあげたのに!」と、不満が出てくるのです。
そして、相手からの愛情を求めるばかりに、愛情がいつの間にか憎しみに変わる。
これが、私たちが求めてやまない「愛」というものでしょうか?どこか違いますよね?何が違うのでしょうか?
多くの人が誤解している愛の姿
こうやって書いている私自身、同じような錯覚に陥っていました。10~20代の頃です。
誰からも好かれたい、愛されたい、嫌われたくない。いい人と思われたい。だから、みんなが思う、いい人でいようとする。みんなから愛されたいために。
他の人がチヤホヤされると、「なんで、自分じゃなく〇〇なんだ!?」「こっちを見て欲しい!」と、チヤホヤされている人に対して、嫉妬心が芽生えて、こちらに向かせようと愛情の空回り…
こうなると、もう負の無限ループです。こんなことを繰り返して、最終的には、「自分はダメな人間なんだ」と、無駄に落ち込む。
今思えば、こんな打算的で自己中心的な人間を、好きになんかなれないですよね。書いている私自身、そう思います(笑)ですが以前の私は、こんな感じでした。
先ほども書いたように、これは愛に対する「錯覚」だったんです。そして残念ながら、多くの人は私と同じように、愛について誤解しているように思います。
愛が欲しいのは、何のため?
どんな誤解でしょうか?
そもそも、「愛が欲しい」「愛されたい」と思う理由は、何でしょうか?それによって、自分が満たされるためですよね?つまり、自分優先です。
愛を求めているように見えて、実はそれは、ただの自分の欲望だったんです。愛情を表現して伝えているつもりでも、それは、大切に思う相手の自由を、自分のために束縛、制限しようとしているだけなのです。
つまり、自分の欲求を満たしたいだけなんです。
根底にあるのがそれなので、「こんなにしてあげているのに、なぜダメなんだ!」という思いがわき出て来るんです。それがエスカレートすると、「自分が注いできた分を返せ!」という感情に飲み込まれていく。
どう考えても、私たちの求める愛とは、かけ離れていますよね?
本当の愛とは、何なのでしょうか?
愛とは与えるもの
ここで、最初のオカメインコの話に戻ります。恥ずかしながら私は、ペットのオカメインコをきっかけにして、本当の愛というものが何なのか、少し分かったような気がします。
連れてきて1週間足らずのオカメインコ。まだまだ、ぜんぜんなつきません。それでも、愛着がわいてくる。どんなにそっぽを向かれても、どんなに逃げられても、オカメインコのために何でもしてあげたいと、自然に思えてくる。と書きました。
相手からの見返りも関係なく湧き上がってくる慈しみの感情。この感情を自覚したときに、本当の愛というものを自覚できたように思います。
愛とは、相手優先
愛とは、相手のことをいとおしく、かわいく思う、大切に思う、いつくしむ感情や精神状態のことです。自分よりも相手のことを思う感情です。
そこには、自分を満たすことなどは存在しません。いわば、相手優先です。相手のことを大切に思い、とめどなく湧いてくる感情。それが愛なんです。
それなのに、そんな愛を多くの人は、自分が満たされたいがために欲しがるんです。ここまで読んでいただいたあなたなら、このおかしさに気づくはずです。
最初に愛について「偉大なもの」と言った理由も、ここにあります。本当の愛とは、惜しみなく相手に与えることということです。
誰からも愛される、たった1つの方法
本当の愛とは助け合い、お互いを尊重すること、そして、惜しみなく与えることです。利他の究極の形が、愛と言えます。
「愛が欲しい」「愛されたい」と思う時点で、それはすでに愛ではないと思います。ただの自己満足でしかないからです。
ここまで読んでいただいたあなたは、誰からも愛される方法が何か?気づいたのではないかと思います。
誰からも愛される、たった1つの方法。それは、「愛が欲しい」「愛されたい」と求めることをやめることです。そして、与えることです。つまり、愛することでしか愛は得られないんです。
「そんなこと言われても、見返りもなしに愛することなんてできない」と、思うかもしれません。ですが、立場を変えて考えてみてください。
口を開けてエサを待つだけのひな鳥のように、愛を求めてがっついてくる人を、あなたは好きになれますか?最初のうちは許せても、それが続けば嫌になりますよね?あなたのことを気遣い尊重してくれる人のことを好きになり、心を開くはずです。
類は友を呼ぶ
それだけでは、ありません。
「類は友を呼ぶ」という言葉がありますが、人は同じ波長の人としか一緒にはなれません。あなたが愛を発信する人になれば、同じように自分から愛を発信する人を引き寄せて来るのです。
あなたは、どんな人たちに囲まれたいですか?
- 人からの愛を要求するばかりで、普段から不平不満だらけの人なのか。それとも、
- 自分から愛を発信して、助け合い、お互いを尊重できる人。
誤解のないように断っておきますが、相手からの見返り欲しさに愛を発信しても、人は逃げるだけです。本能的に察知しますし、そういう打算的な人しか寄ってきません。
さいごに
ここでは詳しく書きませんが、愛とは、この宇宙で最も尊いものです。
その最上位のものについて、私が記事にするなんておこがましいことだと思い躊躇していましたが、どうしても思うことがあったので、今回あえて書かせていただきました。
この記事が、愛を求めてさまよっている1人でも多くの人たちの心に届いてくれたら、これほど嬉しいことはありません。
今日も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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