大森兵蔵・アニーの生涯と、いだてん2019大河での逆転現象

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大森兵蔵は、2019年大河ドラマ・いだてんにも登場している実在の人物で、竹野内豊が演じています。

TOP画像の出典:おもしろきこともなき世をおもぶろぐ

アメリカに留学し、アメリカ人のアニーと結婚。当時(明治~大正期)では珍しい国際結婚をした人物ということで、いだてんでは会話でやたらと英語を多用する、ちょっとキザなキャラとして描かれている兵蔵。

調べてみると、いだてんでの大森兵蔵とアニー夫妻には、ある「逆転現象」があることが、分かりました。

今回は、2019年大河ドラマ・いだてんでの大森兵蔵・アニー夫妻の逆転現象と、実際の大森兵蔵アニー生涯について、まとめてみました。

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いだてん第4話から登場、大森兵蔵とアニー夫妻の逆転現象とは?

いだてん第4話から本格的に登場する、竹野内豊が演じる大森兵蔵と、シャーロット・ケイト・フォックスが演じるアニー(日本名:安仁子)の夫妻。

この2人の逆転現象とは何か?それは、2人の年の差でした。

姉さん女房!?

キャストの実年齢では、竹野内豊が48歳シャーロットが34歳と、竹野内豊が1周り以上も年上なので、私は実際の大森兵蔵夫妻も兵蔵の方が年上だと、勝手に思い込んでいました。

でも、実際は逆でした。

大森兵蔵は1876年(明治9年)生まれ、妻のアニーは本名が「アニー・バローズ・シェプリー」1857年(安政3年)生まれ。実際は、なんとアニーの方が19歳も年上なんです。

実際の大森夫妻の年の差と、キャスト2人の年の差が逆転しているという、面白い逆転現象が起こっているんです。

なんで、竹野内豊とシャーロット・ケイト・フォックスの組み合わせになったのかは謎ですが、実際の大森夫妻は妻のアニーが19歳上と、姉さん女房の2人だったんです。

私のように、キャストの年の差がそのまま反映されていると思っている人が多いと思うので、注意が必要です。(←大げさ 笑)

大森兵蔵とアニーの生涯①出会い、そして結婚

続いては、大森兵蔵とアニーの生涯を、まとめました。まずは、2人の出会いから結婚までです。

大森兵蔵とアニーの出会い

岡山県岡山市出身の大森兵蔵は、同支社普通校(今の同志社大学)、京高等商業学校(今の一橋大学)を続けて中退し、渡米。カリフォルニアのスタンフォード大学で経済学を学んでいました。

大森兵蔵は、日本人の中でも貧弱な体質だったそうで、アメリカ人との体格差に驚いたそうです。そして、日本人の体格向上には体育の普及が必要だと考えるようになり、スタンフォード大学も中退します。

その後、国際YMCAトレーニング・スクールに入学、専門的な体育を学びました。

一方のアニーは、イギリスからアメリカに渡ってきた開拓民で、ニューイングランドの名門・シェプリー家で生まれました。

アニー17歳の時に父が殺害されるという悲劇が起こりますが、幼い頃からの画家になるという夢を叶えるため、ボストンの美術学校へ入学します。

アニーには絵の才能があったようで、この翌年にはニューヨークで絵の教師をしながら、自分のアトリエを持つようになっていたそうです。

アニー49歳の時、絵に専念するために料理人を雇おうと考えます。そこで、国際YMCAトレーニング・スクールを訪れ、アルバイトの斡旋を頼みました。

その時に応募してきたのが、大森兵蔵でした。

たった2日でバイトを辞める!?そして結婚

料理人アルバイトとして、アニーの家に住み込みで働くことになった大森兵蔵ですが、たった2日でバイトを辞めようと考えたそうです。

それは、アニーの満足する料理が作れないから、だったそうです。

兵蔵から、辞めたいと申し出がありましたが、アニーは料理以外の仕事をしてほしいと引き留めたそうです。

やせ型で髭を生やしている兵蔵の外観から、イエスキリストを感じたということですが、それだけではないものを大森兵蔵から感じ取ったんでしょうか。

大森兵蔵は武家生まれで教養もあったので、アニーと話が合い、アニーは兵蔵に惹かれるようになっていきました。

でも、19歳という年の差と、アルバイトと使用人という関係もあって、なかなか恋愛まで発展しなかったそうです。

そんなときに、事件が起こります。

もともと、アルバイトは大森の夏休み期間中だけだったのですが、そのアルバイトが終わるころ、兵蔵がアニーの家の庭のベンチのペンキ塗りをしていた時です。その時に、漆で体中がかぶれてしまったのです。

体中がかぶれて腫れ上がる兵蔵、それを必死に手当てして看病するアニー。やがて、2人は交際に発展し結婚を誓い合ったのです。

アニーは、イギリスで「サー(伯爵)」の称号を得ている名家の娘ということで、アニーの家族は最初2人の結婚を反対したそうです。ですがアニーの決意は固く、その決意に負けて2人の結婚を認めたそうです。

そして1907年(明治40年)、2人はアメリカで結婚式を挙げました。このとき、大森兵蔵は31歳、アニー50歳。2人とも初婚だったとか。

アニーは名家の娘ということで、2人の結婚は地元の新聞にも取り上げられるほどのニュースだったそうです。

帰国、そして帰化

大森兵蔵とアニーは結婚の翌年、1908年(明治41年)に帰国します。

大森兵蔵は、妻のアニーを兵蔵の家族に紹介しようとしますが、大森家は武士の家系で、アメリカ人との結婚なんてもってのほか。岡山の実家を訪れることも許されなかったようです。

それでも諦めずに、実家の説得を重ねていくことになります。

帰国した大森兵蔵は、東京YMCAの初代体育部主事日本女子大学の教授に就任して、アメリカで学んできたバスケットボール、バレーボール、テニスを指導しました。

そして、アメリカで見てきた子供のための運動場やクラブハウスなどに感動し、日本でも取り入れるべきだと主張します。

残念ながら、それが東京YMCAで受け入れられることはありませんでしたが、大森兵蔵のことを高く評価する人物がいました。嘉納治五郎です。

やがて兵蔵は、嘉納治五郎に勧められ「大日本体育協会」の設立に参加、治五郎の右腕として日本のオリンピック出場のために、力を尽くしていくのでした。

この一方で、大森兵蔵とアニーは有志の婦人を集めて、「有隣婦人」という組織を作りました。そして1911年(明治44年)、児童福祉施設「有隣園」を完成させました。

ちなみに、この有隣園の名前の由来は論語の「子曰徳不弧必有隣(子曰く、徳は弧ならず。必ず隣有り。徳のある人はけっして孤立しない。必ず理解し協力する人が出てくる、という意味 )」だそうです。

こうした活動が認められたのか、それまで結婚に反対していた兵蔵の家族もアニーを受け入れ、アニーは1911年(明治44年)に日本に帰化「安仁子(あにこ)」という日本名を名乗りました。

ここからは、アニー→安仁子と表記します。

大森兵蔵とアニーの生涯②オリンピック、その後

続いては、大森兵蔵とアニー夫妻のオリンピック、そして2人の晩年です。

命がけのオリンピック

嘉納治五郎の右腕として、ストックホルム五輪出場のため奔走していた大森兵蔵。兵蔵は、日本選手団の監督に就任することになりました。

ですが、このとき兵蔵は当時「死の病」と恐れられた肺結核を患っていました。体調がすぐれない中でしたが、他に監督を引き受けてくれる人がおらず、やむを得ず引き受けたそうです。

安仁子も、オリンピック出場が決まった金栗四三に、英会話やテーブルマナーを教えたりして、病の兵蔵を懸命にサポートしました。

こうして、大森兵蔵と安仁子夫妻、四三、三島弥彦の4人だけの選手団(選手団長の嘉納治五郎は後から合流)は、ストックホルムに向けて出発することになりました。

日本からストックホルムへは、今なら飛行機で1日足らずで行けますが、当時は旅客機なんて存在していません。移動手段は船と鉄道のみです。

兵蔵たち4人は、日本から40日かけてストックホルムまで行ったそうです。

そんな長旅に兵蔵の体は耐えられるはずもなく、吐血するまでに悪化してしまいました。四三や弥彦が練習を開始する中、それに参加できず安仁子の看病を受けていました。

その甲斐あって、兵蔵の容態はオリンピック開会式に参加するまでに回復します。でも、病を押して四三のマラソン応援をしたことで体調を崩してしまい、医者から絶対安静と言い渡されてしまいます。

四三たちが帰国する際、挨拶に訪れましたが、安仁子が面会を断るほどだったそうなので、どれほどの容態だったか、察するに余りあるでしょう。

日本に帰ることも叶わず…

ストックホルム五輪が終わった後も静養を続けていた大森兵蔵は、文部省からの依頼でアメリカの体育施設視察のために、アメリカに渡りました

でも、アメリカに着いた時には、兵蔵の病状は視察もできないほど悪化していました。そして、医者からは旅行は禁止、入院を勧められます

大森安仁子は兵蔵の入院先を探しますが、兵蔵は有隣園のことを心配し、日本に戻りたいと懇願します。

それに押されて安仁子は日本への帰国を考えますが、その道中、兵蔵の容態が見る見る悪化していったため、予定を変更。サンフランシスコの病院に入院させました。

ですが、その甲斐なく1913年(大正2年)1月15日、大森兵蔵永眠、38年の短い生涯を終えました

大森安仁子(アニー)、夫への愛

夫・大森兵蔵に先立たれた安仁子は、兵蔵がやり残した体育施設の視察を行い、報告書を完成させて日本に帰国しました。

そして、兵蔵の遺志を継いで有隣園のために力を尽くし、児童福祉事業、貧困地域のための社会事業で、大きく貢献していきました。

その功績が評価されて1940年(昭和15年)、紀元2600年を記念した社会事業大会で表彰されました。

当時は、第2次世界大戦に入り太平洋戦争へと向かっていく時代で、反米感情がどんどん高まっていた時代です。そんな中での表彰なので、安仁子の功績の偉大さが分かりますよね

大森安仁子は、この表彰の1年後の1916年(昭和16年)8月3日、安仁子が書いた兵蔵の肖像画や親族に見守られながら、85年の生涯を終えました

安仁子は夫・兵蔵の死後、黒い服(喪服)しか着ないで、兵蔵の命日には人に会わず、部屋にこもって亡き夫を偲んで、兵蔵への愛を貫いたそうです。

まとめ

いだてんで第4話から登場の、大森兵蔵安仁子(アニー)夫妻の生涯と、いだてんでの2人の逆転現象について、まとめました。

この記事をきっかけにして、2019年大河ドラマいだてんについて、より深く興味を持っていただけると嬉しいです。

今日も、最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。



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